8月6日は何年たっても

大人のおしゃれ塾、田中です。

今日は原爆の日ということで、塾とは関係のない話になりますが、申し訳ありません。

私の母は、1945年8月6日、当時勤務していた中国電力で被爆しました。いつもより早く出勤したため、そして湯沸かし室にいたため生存することが出来ました。

いつも通りに出勤していたら路面電車車中で、湯沸かし室にいなかったら事務室で被爆し、おそらく母はこの世にいなかったでしょう。

それにしても中国電力は爆心地から約600mですから、よく生き残れたものです。

原爆の話は幼い頃から聞いてきました。8月6日は母が泣く日で、その母も3年前に他界しました。

日常が一瞬で失われた日

平和記念公園レストハウスでは、被爆前の中島町の様子が「VR爆心地」という映像で再現されています。

レストハウスが、リニューアルオープンした時にこの展示を見ました。

広島県立福山工業高校の生徒さんたちによる力作です。当時の町並みや行き交う人々の様子が胸に迫ります。

中島町という限られた地域についてですが、その被爆前と後を、仮想現実(バーチャル)で見ることができるのは、非常に訴える力が大きいです。

今朝の中国新聞の話になりますが、17面の記事で「あの日まであった暮らし」というタイトルで、被爆前日までの人々の暮らしが、10枚の写真で紹介されています。

本通りで子供を抱くお父さん、妹の肩に手を回した幼いお姉ちゃん、食事に出かけたお父さんやおめかしした子供たち。

広島の街は、爆心地から2キロ以内が全焼したため、被爆前の写真が残っていないそうです。

中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターでは「被爆前を捉えた写真を募集しています」との広告が記事横に掲載されていました。

このような写真からは、日常が一瞬で失われることの「むごさ」が言葉を介さずとも伝わります。原爆の恐ろしさを世界に訴えていくためにも、地道な資料収集は欠かせないことでしょう。

被害の全容の解明は75年たっても分かっていない

1945年8月からその年の12月までの被爆犠牲者数は、原爆資料館や教科書などでは、約14万人と公表されているそうです。

けれど、実際に調査で把握できている数は8万9025人と、中国新聞は同記事で「被爆の全容は75年たっても分かっていない」と報じています。

慰霊碑に納められている原爆死没者名簿には「氏名不詳者多数」と記されているそうです。

おわりに

写真は広島平和公園レストハウスから見た元安川です。

こちらは地下室に降りていく階段です。
被爆当時の状態で展示されています。

平和な現在と悲惨な過去と。

広島平和公園レストハウスは、身近に原爆について考えさせてくれる貴重な場所です。

母は、原爆資料館には生涯行くことが出来ませんでした。辛すぎたからです。

けれど、このレストハウスなら連れてきてあげたかった気がします。やはり泣かれたかもしれませんが。