こんにちは。大人のおしゃれ塾、田中です。
先週3月6日付けの中国新聞に、日本人デザイナー3人の22~23年メンズ秋冬コレクションの記事がありました。
題して「なぜ服作り/原点回帰」
今回はクリエイションの場で起こりうる文化の盗用について考えてみたいと思います。
文化の盗用とは
この記事では、コムデギャルソン・オム・プリュス(川久保玲)、ヨシオクボ(久保嘉男)、メゾンミハラヤスヒロ(三原康裕)の3人が、それぞれどんなテーマ(コンセプト)で作品作りを行ったかがとり上げられています。
久保氏が
自分のオリジナリティや強みは何かと掘り下げたとき、自分のルーツ、日本文化にたどり着いた
と述べている点はまさに記事のタイトル通りです。
三原氏も改めて自分の中の「ローカリズム」について考え、自身の出発地点である「1990年代の東京の空気感」を新作に詰め込んだそうです。
モード界の大御所、川久保氏に関しては直接インタビューから起こした記述はなく「見たこともないもの」を追求し続けるデザイナーの原点が見て取れたと、川久保氏のあくなき創造への探求心といった視点でまとめられていました。
ここまで読んで気になったのがファッションジャーナリストの増田海治郎氏のコメントです。
コロナ禍で海外渡航が制限される一方、文化の盗用などが問題視され、デザイナーは自分の出自に向き合い始めた。
文化の盗用!
そうです。「文化の盗用」ということが盛んに言われ始めたのはSNSが普及し始めた頃からだと思うのですが、それ以前にもパリやミラノのコレクションで、日本やアジアの伝統衣装、アフリカ先住民の民族衣装をモチーフとしたデザインが発表され問題になったことがありました。
支配的な立場にある文化が、マイノリティーの文化を使用し「私物化」してしまうこと。
ウィキペディア(Wikipedia)では、文化の盗用について「ある文化圏の要素を他の文化圏の者が流用する行為」と定義しています。
日本の文化も開国以前は、ヨーロッパの男性の室内着として大変人気がありました。19世紀後半には花鳥模様など日本風の文様が盛んに婦人服にも用いられました。モネ、ゴッホなど印象派の画家も浮世絵から大きな影響を受けたことは広く知られているところです。1900年に開催されたパリ万国博覧会でも芸者の貞奴(さだやっこ)は大人気でした。
こんなふうに日本の文化がヨーロッパに受け入れられることは忌むべきことではなく、むしろ誇らしいこととして『モードのジャポニスム展 -キモノから生まれたゆとりの美-』は開催されたと思います。(京都国立近代美術館、1996年)
この展覧会の模様は映像化されていて、短大に勤務していた頃は『ファッション文化論』の授業で毎年とり上げていました。視聴した学生からは「日本文化が評価されたことが嬉しい」「日本文化を再認識した」という感想が多く寄せられました。
「自国の文化が貶(おとし)められることなく尊重されているかどうか」が文化の盗用、流用を判断する分岐点のように感じます。
身近なところでも起こりうる文化の盗用
私が2002年に開催した作品展『Energy of Earth』では、大地のエネルギー、力強さを表現するためにアフリカの「カンガ」という布を使用しました。
『Energy of Earth』2002年
カンガ布の大きさは110㎝×150㎝と限られていて、それだけの用尺(1~2枚使用)で1着ずつ制作しましたが、大胆な絵柄はいつ見ても美しく、服に仕立てても布のエネルギーが損なわれませんでした。
レンタルしたマネキンが予想以上の高身長で、着せてはみたものの膝から下がニョッキリ白く丸見え。。。慌ててその晩、黒のレッグウォーマーをマネキンの人数分縫い上げました。翌朝、開場前に私一人でマネキンに履かせたのですが、マネキンは細いくせに重たかったです。
今思えば、20年前の私には「文化の盗用」という概念はありませんでした。
当時、学生の卒業制作ファッションショーでも、チャイナドレスはありましたし、エスニックなファッションでターバンを自分なりのアレンジで巻いた学生もいました。
まだ携帯電話が普及し始めた頃で、スマホはもちろん、Twitterもインスタグラムもありませんし、「文化の盗用」という問題に関しては自分でも甘かったと思います。
けれど人が「何から着想を得るか」を考える時、異文化はとても刺激的で魅力的です。
そこからインスピレーションを得る、影響を受けるということは、ファッションに限らず、音楽、アート、建築、食、文学など多くの分野で起こりうることでしょう。
大切なのは、他者の文化を用いるとき、まずは十分にその文化について調べ、「自分たちがしていることは搾取にあたらないか」「他者の文化や他者を傷つけていないか」を考える姿勢だと思います。
表現の世界で、こういった視点がもたらす窮屈さはあると思いますが、もし、日本のキモノkimonoが異文化の人たちに面白半分で使われたり、「何でここで芸者のヘアメイク?」と違和感を覚えさせたりは、やはり気持ちの良いものではありません。
自分の感覚が正しいとは限りませんし、快不快にも個人差があります。
難しい問題ですが、少なくとも自分が発信する「もの」や「こと」に関しては、他者に対する配慮を怠らないようにしたいものです。